ヨーロッパ旅行特集

ヨーロッパの豆知識

「水」と「森」の国オーストリアのウィーンの森


「水」と「森」の国オーストリアのウィーンの森は、 ウイーン市郊外に広大な森が南北に広がっている。

ウイーンの北部5~6kmに、ウイーンの森「北」がある。
ここへのオプショナルツアーを設定しているオーストリア旅行はほとんどないが、 午後に市内を出発して、ワイン居酒屋で夕食を摂って帰る半日コースが楽しい。

Beethoven Apartment Heiligenstadt

市内カールスプラッツから地下鉄U4で終点のHeiligenstadtに向かう。 現在ドナウ川からドナウ運河(ウイーン市内を流れる)が分かれるハイリゲンシュタット(聖なる町)は、 昔は田園風景が広がっていて、 音楽愛好家であれば是非訪れてみたい町。
聴覚を失ったベートーベンは1802年にハイリゲンシュタットの遺書を書く。 しかしそれを乗り越え、数多くの名曲を残したことは余りにも有名。 交響曲第3番「英雄」、第5番「運命」、第6番「田園」、 1824年の第9番「合唱付」のウイーンでの初演。 歌劇「フィデリオ」、ピアノソナタ「熱情」、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」、 バガテル(Bagatelle:小品)のエリーゼの為に、 などなど多くの傑作を残した。
ハイリゲンシュタットの遺書の家は、地下鉄の駅から徒歩15~20分ほど。 路面電車は市内から37番でGeweygasseで下車。徒歩5分ほど。

カーレンベルグ(Kahlenberg)の丘

38Aのバスはハイリゲンシュタット駅からベートーベンハウス前、 グリンツイング(Grinzing)村から曲がりくねった道(Cobenzlgasse-Hohenstrasse)を 標高430mのカーレンベルグの丘へ、 展望台からは、ウイーンの町が一望できる。
カーレンベルグからバスを乗り継いで標高425mのレオポルツベルグ (Leopoldsberg)の丘へ、 そこからカーレンベルグまで1時間ほどの森の散歩も楽しめる。

グリンツイング村の夕食

カーレンベルグの丘から同じ道をくだったところのグリンツイング村のホイリゲ(ワインの造り酒屋)で夕食がお薦め。 Cobenzlgasse 28バス停留所前のホイリゲは270年以上前の建物。 ホイリゲでは白ワインと軽い編成の楽団の音楽(シュランメル音楽)を聴いてウイーン郊外で思いでの一夜を過ごします。
店から500mほど南のグリンツイング墓地には作曲家グスタフ・マーラーの墓もある。 帰途は店の前から38Aバスで地下鉄ハイリゲンシュタット駅、 あるいは同じく店の前より38番の市電で市中心に戻ってくる。

ウイーンの南部40kmほどから始まる森林地帯。 ウイーンの森「南」へは旅行各社がオプショナルツアーを 販売しているので日本で申込みができる。 いずれも1名より催行、午後14時出発で4時間(半日)

ハイリゲン・クロイツ修道院(Stift Heiligenkreuz)

ウイーンの森「南」の静寂の中に突然姿を現す女子修道院。 1133年ウイーン辺境伯レオポルド3世により建てられた。 現存の女子修道院では世界で2番目に古い。 規律は祈り(Pray)と労働(Work)。
ファザード(建物正面)、身廊(祈りの場所)ハ1187年、 祭壇は1295年当時のもの、 ファザード前の回廊に囲まれた中庭には、 聖ヨセフの泉と18世紀に造られた三位一体(Column of The Holy Trinity)のポールが印象的。

マイヤーリング(Mayerling)

ハイリゲンクロイツ修道院からわずか南にくだった森の中に、 悲劇の狩猟館がひっそりと建っている。 1889年1月30日、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と皇妃エリザベートの間の嫡子ルードルフがマリー・ヴェッツェラと自殺した場所。 悲劇は「うたかたの恋」として映画や劇になっている。 この事件は当時60歳になろうとしていた皇帝に衝撃を与えたばかりでなく、オーストリア=ハンガリー帝国の威信を落としめた。 更に嫡子ルードルフの死から10年後の1898年10月には 最愛の后エリザベートがスイスのレマン湖のほとりで 無政府主義者に暗殺される悲劇が皇帝を見舞った。
それから20年後の1918年には、ルードルフ1世が神聖ローマ帝国皇帝として選ばれ、 ハプスブルグ家が歴史の舞台に登場してからおよそ650年の長きにわたり ヨーロッパを支配してきたハプスブルグ帝国が崩壊する。

メドリング(Modling)近郊のかわいいレストラン。
作曲家シューベルトと友人たちは1820年から1826年の間 ここの賓客で、シューベルトの歌曲菩提樹を作曲。 また多くの芸術家の一人として、オーストリア表現主義の画家ゲオルグ・フェルディナンド・ワルドミュラーは有名な絵画、 父母の家から旅立つ花嫁(Abschied der Braut vom Elternhaus)のなかでのどかで、陽気なこの地方を描写している。(作品はウイーン市内ベルヴェデール宮殿内ギャラリーに陳列)
建物の記録は1210年に遡る。 当初はワイン農園の事務所、その後小麦粉の製粉所となり、18~19世紀にはウイーン市民の観光名所となっていった。
第二次世界大戦で完全に消失したが、1959年=60年にかけて再建され、 今日まで続居てきた理由は伝統あるモットー"The best for our guests"にあると語る。
食事は昼食、夕食も可能だが、ツアーではケーキ(ザッハートルテや店の特別お菓子ークリームーストゥルーデル)と飲物で休憩が多い。

Jonathan Smith
Chief editor, Magazine

中欧のプラハ、ブダペストも素敵です