ウイーンから列車でおよそ1時間15分、 高速道路ならA1号線を1時間ほど西に向かうと、 世界有数のメルク修道院の建物が、ドナウ河丘陵の畑の上に姿を現す。
この地域は、古くは辺境の軍事地区(Mark:マルク)で、 976年には初代辺境伯でバーベンベルグ家(ハプスブルグ家以前のオーストリアの名門)の レオポルド1世が居城を構えていた。
996年からオスタリッチ(Ostarrichi:東の地域)の名前で呼ばれ、 それから1000年以上経った今日、オーストリアの名称になっている。
1089年、後継者レオポルド2世は、居城にラムバッハからベネディクト派の修道士を呼び寄せ、 彼らは聖ベネディクトの教えに従いここで生活するようになり、
メルク修道院の原型ができた。12世紀には学校も併設。
中世防御施設(稜堡)の間の正面を通り、東ファザード入口より入る。
高位聖職者(Prelate)の中庭。庭の噴水と教会の円蓋が見える。 196m続く皇帝回廊を通り皇帝の間へ。 回廊の壁にはバーベンベルグ家、ハプスブルグ家君主の肖像画が飾られている。
第4室ローマン十字架、第十一室修道院の模型など
皇帝家族の食堂、VIP宴会場。
バロックの画家パウル・トローガー(Paul Troeger)の天井
フレスコ画や同じくガエタノ・ファンティ(Gaetano Fanti)の建築画
ここからはドナウ川とヴァッハウ渓谷、メルクの町並みの絶景が望める。
ここにもパウル・トローガーの天井フレスコ画とガエタノ・ファンティの建築画。
主祭壇身廊の天井フレスコ画はバロックの画家ミヒャエル・ロットマイヤ(Michael Rothnayer)による聖ベネディクトの天への道。
アントニオ・ベドゥッチ(Antonio Beduzzi)による身廊、横廊祭壇、聖歌隊席などの内装建築。
パイプオルガンは20世紀のパイプ職人グレゴル・フラデツキー(Gregor Hradetzky)、市民祭壇は同じく建築家フュルス(Fuerst)による。
左手にはショップとレストラン(1階と2階はフレスコ画装飾)で休憩も可能。
ヨーロッパの修道院や教会を訪れると、ベネディクト派の名を耳にする。
西欧で最も古い派で、中部イタリアヌルシア出身のベネディクトゥスが、 529年少数の弟子と共にイタリアのモンテ・カシーノに修道院を建てたことに始まる。
同派のモットーは「Ora et Labora:祈りそして働け」といわれる。
サウンド・オブ・ミュージックのマリア先生の出身修道院としてよく知られている、ザルツブルグのホーヘンザルツブルグ城下のノンベルグ修道院(Stift Nonnberg)も ベネディクト派に属し、ヨーロッパでも一番古い女子修道院といわれている。
ところで、聖ベネディクトゥスの肖像画では、フランドルの画家ハンス・メムリンクの作品がフィレンツエの ウフィッチ美術館に所蔵されている。
またヌルシアとは現在のノルチャ(Norcia)でローマから、 北東150kmほどの田舎町、モンテ・カッシーノは、 ローマから太陽道路A1号線を、ナポリに向けて150kmほど南下すると、バスから左手山の上に建物がよく見えてくる。
ここは第二次世界大戦時にはドイツ軍の無線基地があって、 それを破壊する連合軍との間で壮絶な戦いがあったところ。
現在の修道院は、当然新しく建てられている。 ローマからナポリ・ポンペイに行く間に、 高速道路の標識にカッシーノと書いてあるのが目印。
15世紀には、コンスタンツ公会議(ドイツのコンスタンツで開催)で決定された教会の改革を受け、メルク修道院がオーストリアの修道院を率いる立場となり、規則正しい規律の模範となった。
バロックの時代1700年には、若干30歳で修道院長に就任したベルトルド・ディートマイヤーが、 バロックの芸術家達の参加を得て修道院全体の新築を開始、
約40年の歳月をかけて今日の修道院の姿になった。修道院見学コースに沿って彼ら芸術家の作品を堪能していきたい。